昭和54年12月25日 朝の御理解 ●② 大坪かよこ
御理解第95節
世には神を売って食う者が多いが、此方は銭金では拝まぬ。神を商法にしてはならぬぞ。
なかなか難しいご理解だと思いますですね。金光様のご信心をさしてもらうと、なるほど教祖ご自身が銭金では拝まんと、また信者に寄進勧化をしてもならんと仰っておられる。
氏子が真からもちえるものは、神もひれいじゃがとこう仰っておられる、そのみ教え、このみ教えを頂き合わせてみてですね、中々難しい、と思います。
金光様の信心すりゃ、お金はいらん、ということでは、だからないのです。
先日からも、金光様であの、結婚式をしてくれというて電話がかかってから、引き受けておりました。
前の日に、花婿さん、リハーサルをやりますから、来てもらって、どういう程度にしたら良いだろうかと、もう私は信心のない人たちですから、神様のほうを簡単にするわけにはいけんから、お供えとか、いわゆる、典楽、楽のほうやらは、もう今あの、テープでやってますから、それがいいだろうと思っとりましたけれども、花婿さん側の方が、いや、そのやはり肉声が、のほうがええとこういうわけなんです。
ほいで、琴もはいりゃ、太鼓も入る、また、笛なども入れて、若先生が祭主で、祭主が四名、それに後取りが、めちょう、おちょうがありますから、またそれに二人の先生方、そいで西岡先生が司会の御用をさせてもらいましたから、先生方が九人、まあ、かかって、それからお祭りも、ご信者さんたち、ここでなさるように、一応させて頂いたんです。
ところが、何日たったちゃ御礼に出て来んわけですね。
ね、そいで私が電話ばかけんの、ち私が申しました。
ね、先生方のお礼は、ま、奉仕しても良いのだけれど、ま、そんために、お鏡もつくっとら、神酒、みけ、鏡餅からお供え物を一通りさせて頂いておる。
その実費だけは、要求しなければいけない、請求しなければいけないよ、とこういうこと。
ここの町会議員さんが仲人でしたげなから、町会議員さんがここでお初穂を、ま、わずかであるけれど、お初穂をして、ま、見えておりましたから、もうそれでお礼が済んだと思うとるのかもしれんから、電話してみなければいけないよ、というて、電話をせさせいたら、そりゃ、どうもすんません、と言うてから、まあ、すぐ経費だけを持って見えました。
ね、だから、金光様のご信心をすれば、経費まで、教会が持つといったようなことじゃ無いから、それだけは、ま、請求させて頂きましたけれど、ま、先生方のお礼は、まあ、全然向こうもやらんならんものとも思うてないごたふうだし、こちらもまたもらわんならんということも、言わなかったですけれども、ね、それではちょっとおかしいでしょうが、銭金では拝まん、というても、ね、それは金一銭もらわんでも場合によってはです、ね、んならそれをこんなわけですから、と言われりゃ、お金もなら、お礼ももらうことはいらんのですけれども、ね、これが他のまあ、神社なんかで結婚式をすると、ま、A級、B級というふうに、色々段階があって、A級ですればいくら、B級にすればいくらというふうに決まっておる。
そこのところを、教祖様は仰っておられるんだと思うのです。
ね、定価表はない、けれども、氏子が真心から用いるのは、神もひれいじゃがと、こう仰っておられます。
ビリグイあたりがやっぱ、そうだそうですね。
外人の方たちやらは、まあ、そういうひとつの観念が違うわけでしょうけれども、お願いをする、おかげを頂く、そすと、帰りにお礼は神様からもろうててくれと言うて、帰るそうです。
だから、そ、ほんとのことじゃありますよね。
お願いをしたその人からもらわなくても、神様を信じておる、神様から御礼をもらってくれと、言うそうです。
昨日は、波多野さん、それから、石井さん、それから、森光さん、吉井地区のご信者ばっかりですが、三人が話し合って、その三人の方達がお花とか、お茶を教えてもらわれた先生が、独り者で、とてもいい先生だったそうですけれども、亡くなられましてから、もう五,六年になられるでしょうか、昨日はその帰幽日であるという、立ち日であるというので、三人が話し合いをして、あの、慰霊祭をしたいということでございました。
別に深い縁があるわけでじゃないけれども、まあ、しばらくでも花を教えてもらったり、お茶を教えてもらったりと、ま、どういうことでしたか知らんけれども、三人の話があって花を持ってくる人もありゃ、お神酒を持ってくる人もある。お菓子を持ってくる人もある、というようなことで、一時のご祈念にあわせて、慰霊祭を、ま、させて頂いたんです。
ね、金光教はそういうこともだから、できるんです。
だからそげなことでは、というて、御霊様が喜びなさらんとか、御霊様の通じないということはない証拠に、●② 私はここから御祈念さしてもらっておりましたら、ま、白い虹なんかあるはずはありませんけれどもね、虹がこう立ちました。
その虹が、もう天地と、地とをこうつないだような、すーっと、その白い虹がかかるとこをいただいたんですけれどもね、真っ白い虹というのは、ま、虹の橋と申しますから、まぁ、いうならば、難儀な世界から、いうならば、楽な世界、いうならば、苦しみの世界から、楽な世界へ、こう移って行かれる、そのま、橋がでけたように、私は感じました。
で、そのことをお礼もうさせて頂いて、ま、三人の方にも、今日は良い供養ができましたよと、今日はほんとに御霊様も喜ばれたことにちがいはないというて、お話しさせて頂いたんですけどもね。
お供えをしなければお金をかけなければ、ということではさらさらない。
ね、問題は、願うものも真心なら、それを取り次ぐ者もまた、真心で、はー、あっちはお供えが多いから、といったようなものではない、まあ、心では、信心のいうならば、真というか、真心というか、いうなら、ほんとのことを教祖の神様は、言うておられるのであり、ご自身もまた、そういうお心でお取り次をなさったということでございましょう。
ね、だからと言うて、その、これはね、信心をさせて頂くものの側としてはです、ね、ほりゃもう、安うしてもらいよるけん、とか、お金がいらんからとか、便利とか、得になるからといったようなものではお互いの信心が、いうならば信心が分かりません。
ね、ね、ほいで、ま、普通で、いうならば、結婚式が、ま、二万円なら二万円かかるとしましょうかね、神社あたりでさしてもらって、ね、けれどもね、いうならば、お取り次を頂いて、いうなら、親先生のご祭主で、お祭りを仕えてもらった、結婚式をして頂いた、こんな有り難いことはないとして、十万の、いうならば、お礼をさせて頂いても、そりゃ多すぎるということはいわんのです。
ね、その方の真心なんですから、ね、そこになら、助かる手立てというものは、生まれてくるんです。
いよいよよりおかげと、千円のお供えよりも一万円、一万円のお供えよりも十万、百万というようにです、それが有難くできれることを教えてはおられませんけれども、ね、そういうこともおかげの頂けれる、いうなら手がかりとして、そこに信心を、いうなら、極めていくということは、そういう真心の表し方というものをです、私どもが、けいこさせて頂かなければ、いけない。
そしてただおかげを頂くじゃ無い、信心が頂きたい、真の信心が頂きたい、というふうに、信心の意欲も燃えてまいります。
より、より有り難い信心が頂きたい、ね、そこで真の信心とは、本当の信心とは、と皆が追求も致してまいります。
ね、それこそ真の信心とは、真の信心とは、今朝もお参りになっとりますけども、飯塚から、参って見えます野村さんなんか、そうです。
ある教会で、もうそれこそ、熱心に信心のけいこをしておられた。
もうそれこそ金光教全般にわたっては、もう、それこそ、金光様の先生よりも詳しいごと、研究しておられる。
朝参りも続けられた。毎月月の一日には、先生に来て頂いて、慰霊のお祭りもさしてもらう、または、感謝のお祭りも毎月してもらう、お日参りはもちろん、ご本部参拝も月のうち、月一回だけは、必ずご本部参拝もなさった。
ところがその真の信心ということが分からない。
ほんとのおかげになって、いわゆる、真のおかげになってこない、そんな悩みを持っておられるあるときに、合楽の話を聞かれた。
ちょうど合楽の十三日会の、ま、ここで一番大きい信心共励会の日に、二、三人でお参りになられた。
そしてそれこそ、一つの驚きですよね、信心の喜びと、信心の驚きとここではいわれますが、ね、その驚きを感じられたわけですね。
ここに私が日頃求め続けておった神様が、おられた、という驚きじゃなかったでしょうか、
翌朝から毎朝、日参をされるようになりました。
ね、そういうある日にお夢を頂かれた。
ね、マルマルご造営に奉賛することが、真の信心ぞ、というお知らせを頂かれた。
だからその、何何造営、合楽建設、とか、合楽のご造営とかはいただかれなかった。
けれども、お話しを頂くと、または、実際見たり聞いたりしておると、合楽の、今度の合楽建設は、今度に限らず、ここのお広前ができるときだってそうでした。
椛目に金光教神愛会が生まれたのもそうでした。
事前発生でした。自然に生まれたのでした。
ね、ここの御広前が建立される時にも、それこそ神様が、急ぎに急いで、いわば咳き込むようにして、このお広前が立てられた。
ちょうど私の教師拝命、教会設立、ということのお許しを、ご本部から頂いた、出来上がった、それがいただけた、時が一緒でした。
こんどの信徒会館のご造営も、やはり神様が先頭に立っておられるなと、もう感じずにはおられん働きが、合楽全体の上に起っておる。
してみると、神さまが一生懸命、いわば建てておられる、それも手にも成らしてください、足にもならしてください、ね、それこそ釘一本、でも、お供えさせて頂きたいという願いを持つことは、神様の願いにこたえることになる。
ね、なるほどマルマル造営というのは、神様のご造営をなさるという意味じゃないかと、改めて思うんですね。
合楽ともなんなん教会とも仰らなかった。
ね、ある、いうならば、ご造営、それは神様がご造営を思いたっておられるんだと、難儀な氏子が沢山助かることのための手立てになる事の、いうならば、ご造営である。
神の願いがそこに、いうならば、成就しておるのである。
その神の願いが成就することのために、奉賛する、なるほどこれは、真の信心であることが、私はそれを聞いて、改めて、真の信心とは、もちろん色々あります、合楽で言われておる、天の心を心とし、地の心を心とし、神様のお心を心とする信心、それが真の信心だと、ま、合楽理念では説くのですけれども、やはりなら、神様が先頭にたってござる、ご造営ですから、ね、神様のお心にそい奉ることになる、だから、真の信心とは、これだというふうに、なったわけです。また分かったわけです。
ね、ですから金光様の信心すりゃ、お金はいらんといったような、ね、程度のことでは、おかげはよし受けましても、信心は一つも進まない、真の信心にも、真のおかげにもつながらないことが分かります。
私はこういうご理解がありますよね。んにゃ、信者に寄進勧化をしてはならないとか、ま、この九十節を、九十五節を頂きましてもです、ね、この方は銭金では拝まんとおおせられるようなみ教えを頂きますと、はあ、金光様は、お金はいらんといったような、早とちりをしてはならないということなんです。
いよいよ真のおかげを頂きたい、真の信心がさせて頂きたいならば、そこにご造営が始まったならば、そのご造営にどうでも、奉賛させて頂きたい、と切実な祈り、願いがでけるような信心をひとつ、身につけて行きたいと思うですね。どうぞ。